ラスト・ファイトを観た!
by 野口 越生 1983.10.10
チョット古い話になるんですが、実は見たんです。 ルーベン・ブラデスとウィリー・コローンの”ラスト・ファイト”を。 1982年11月、 プエルトリコはサンファンの映画館で。 月曜日の夕方5時ということもあって、館内はまばら。ふんぞり返って見たゾ。
見てから1年近くたっていて、記憶も定かでないところもあるが、 座談会形式で軽くまとめてみたい。座談会は9月某日、野口宅で行なわれた。出席者は野口越生氏(以下E)と、Hetutor Noguchi氏(以下H)の御両人です。
まず感じたことなんだけれど、よくわからないというか、必然性のないシーンがけっこうあったと思うんだけれど…。
伏線と思われるシーンが伏線でも何でもないとかネ。
言葉の問題もあったけれど、理解に苦しむ映画だった。
いきなり主人公であるルーベン・ブラデスのおばあちゃんが死んじゃうんだけれど。
それが老衰が病気で、その時の遺書か何かがあって、それがテーマになるんじゃないかと思ったワケ。
ルーベンとウィリーの映画だから”マエストラ・ビーダみたいに、ラティーノの人生を美しくも悲しく描くような。
でも、そうじゃなくて、言っちゃえば単純なストーリーで
だから簡単すぎて、むつかしく考えちゃうんだよネ。シーンを深読みしてしまって。
主人公のルーベンはボクサーであり、シンガーなんだけれど、シンガーという面はスタジオのレコーディング風景だけ1で、それも唄いれだけ・・・。
見終ってからの印象なんだけれど、シンガーであるという設定は必要ないんだよね。早い話がてなもんや三度笠でゲストが1曲歌って出てくるのと同じで。
それでボクサーとしての主人公のジムのトレーナーが殺されちゃう。 それから妹も殺しやに狙われて殺されちゃう。
八百長試合をするように主人公は強迫されてたわけだけれど、家族が殺されるいうのも合点がいかない。
それは日本とニューヨークの犯罪の質の違いかもネ。
それで、ルーベンを狙う殺し屋のボスがウィリー・コローンなんだけれど…。
そこが問題なわけ。はっきりいってミス・キャストだネ。チッとも迫力ないし、声のドスのキキもいまいちだし。ルックスも、ヒゲをのばしてはいてもカワイイ。おまけに背は低いし。
もひとつおまけに演技力がない。
スゴ味でいけば、マルビン・サンチアーゴなんかがハマリ役だと思う。
それで強迫にもメゲず、試合に勝つ。
このファイト・シーンが問題で、迫力不足。“ロッキー”という比較されちゃう映画があるから。
肉体的には、ルーベンとシルベスタ・スタローンとを比べるのはかわいそうだけれどせめてカメラ・ワークで迫力を出してほしかった。
カメラワークが気になったんだけれど…。製作費の問題なんだろうけれど、リング・サアドにしか観客がいないわけ。それで後ろの方は薄暗くなっていて、倉庫の中で試合をやっているような感じなんだけれど、なるべく観客席は写さないようにするから、アングルも悪く、動きも悪い。
マジソン・スクエア・ガーデンとはいかなくても、後楽園ホールの新人戦ぐらいの雰囲気はだしてほしかった。
まぁ、それで試合に勝ったから、また々強迫される。ここで殺し屋のボスであるウイリーコローンの情婦がでてきて、色じかけでせまってくる。
色におぼれるほどの演出はないんだけれど一応女に身を持ち崩す。 ここにきて前の試合の後遺症が突然でてくる。
視力が落ちてきて、時々目がかすんでくる。
ア~。いやになっちゃうネ。おもしろくもなんともないストーリー。 ラストシーンは丸見えだし。
まぁまぁ、おさえて。それでウィリー・コローンに呼びつけられたクラブ(オチェンタス)でまたまたしつこく迫られ、ルーベンはボクサー生命の終りを予感して、ウィリー・コローンを殴り殺す。
それも右のこぶしに凶器をはめて、一発で。血まみれてウィリー・コローンはぶっ飛ぶ。
ファンにとっては、ここが一番スリリングなシーンだったネ。。
それで次の試合に臨み、リング上で目がかすんでノック・アウトで終り。ということなんだけれど。
やはりルーベンのトレーナーにウィリー・コローンといってほしかった。
悪役の三下でエクトル・ラボーとかネ。
それとセリフが全部英語だったのも気になったネ。
どこかの映画祭に出したとか・・・。
結局だれに見せる為に作ったかが、一番の問題だネ。
メジャーな線を狙うには、ストーリーも絵もちゃちだし。
ファンとしては、こんな映画作ってほしくなかったネ
- 映画冒頭試合シーンの直後、5:05付近からステージで歌う場面も存在する。Hector Lavoe, Johnny Pacheco, Celia Cruzをステージ上から紹介した後、Yo Puedo Vivir Del Amorを歌っている。 ↩︎
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