“La Tierra de Owarai” Vol.2 -Lelolai Vol.3

La Tierra de Owarai

お馴染み トニー永田の”La Tierra de Owarai” Vol.2
by トニー永田 1984.4.1

本紙につづいて第2弾!
ソロバンでリズムをとりながら読もう。

心ある人達はすでにお気づきのように、このところニューヨークの若手グループ達が好調だ。かってのファニアを中心とする、ニューヨーク独自のキューバ調といわれたサウンドとは明らかに一味も二味も違った80年代の音だ。
何よりも重い殻を脱ぎすてた軽快なフット・ワーク、透明さ、清冽さ、センティミイントが、微笑、いや新鮮なサウンドの魅力だろう。 ここで一気に飛躍するが、この軽快さは、ある意味で田原俊彦 近藤真彦にも通じるものと思う。
しかしちょっと待ってほしい。 彼らが聖子や明菜以下、埋蔵量の測りしれない 女性アイドル群の中で、押されているのも確かなことだろう。女性アイドル達はいわばプエルト・リコ以南のサルサ勢ではないのか。さしずめ聖子はオスカル・デ・レオンか。 明菜はムレンセ。小泉今日子はカナジョン。河合奈保子は…。(以下、皆さん各々でこのアナロジィ・ゲームをお愉しみ下さい。)

ナティーボのすみずみまで磨きぬかれた透明なサウンドには、淋しさと切なさが、ガラス細工のように、はめこめられている。(Conjunto Nativo)

重厚さと軽快さが、見事な調和をみせているファッシナシオンのアルバムは白血病のコンゲーロ ロセンド”パポ”ブルゴスに捧げられている。( Grupo Fascinacion)

ロス・キミーのジャケットではコーヒーと葉巻でくつろぐ青年がNYの摩天楼の向こうに故郷プエルト・リコの自然を夢みている。……(Los Kimy)

表面的な若々しさとはうらはらに、不安な材料が揃っている。 ついでにいえば、デレオンの新譜にも前2作には感じられなかった微妙な翳りがあるように感じられるのは気のせいだろうか。
思いおこせばかってのNYには、悪コンビ W・コローンH・ラボーの下町の街角のにおい、その向こうに カリブ海が見える、サウンドや、今も元気なゲーハー不良中年 アンヘル・カナレスの、スパニッシュだけでなくアフロ・アメリカン、ヨーロッパ系移民達にまで座標をおいたR&Bやジャズ色の濃い、むせかえるようなサウンドがあった。

これらには、≪明日は暗くても、口笛吹いてぶっとばそうぜ≫というパワーが漲っていて私も勇気づけられた。しかし今の若手グループのサウンドには惹かれながらも、一抹の不安は拭えない。ああ結論を言うのが怖くなってきた。

さて異常に長めのフトン、いやマクラになってしまったがお笑いの話です。

ビー・ジー・フォーが解散したという噂を聞いたのだが、果して事実だろうか?この情報量の少なさはサルサといい勝負ではないか。渡辺プロ第2制作部はヒップアップばかりプッシュして、ビー・ジー・フォーを何故もっと起用しないのだろう。

前回も触れた竹中直人だが、年を明けてからのマス媒体への露出度は異常だ。 つまり、全くの消耗品として扱われている訳で、現に飽きられつつある。新しいネタを作る時間も余裕もない。同じ事の繰り返しで、自己発見もない。 さるインタビューで、消耗してもかまわないと言っていたが、本心ではないだろう。
かって早野凡平は、一年に一度しかTVに出ないと言っていたが、見識というべきだろう。
又、逆にうまく使う方法もある。 ビートたけしが“オールナイトニッポンを、タモリが“笑っていいとも”をやっていなかったら、現在の彼らはなかっただろう。

彼が消耗してもかまわないと言うのは、マス媒体の怖さを過小評価しているせいもあるが、またそれ以上に一種の「居直り」でもあるのだろう。この気持は良くわかる。ハングリ一ではないのだ。また先にあげた人達のようなしぶとさもないし、 強靭さもないのだ。
やっと風呂付きのアパートに住めたという述懐も、生活レベルの向上という程度の認識であり、けっして上昇志向の精神的満足感を満たすものではないのだろう。こうした生き方が他人事に思えないのは、世代的共感ーたしか同い歳の筈だーなのかもしれない。
何しろ、素人番組で俳優志望の青年として、松田優作 etc.の物真似を素直にやっている
のを見てからも10年以上たつのではないか。もうここまでだろう1

さて、もう一度ファッシナシオンでも聴くか。

  1. しかしながら、特に俳優としてのその後の竹中直人氏の活躍は、衆知のこと。先見の明がなかったということか。あるいは、あくまで「お笑い視点では」ということなのか。。。 ↩︎

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